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テイスティネイル

「え、甘い……?」
 幸恵には爪をかじる癖がある。いつもは無味の爪なのに、なぜかこの時は甘みを感じた。不思議に思いつつ口元から親指を離し、もう一度軽くかじって舌の上に乗せてみると、やっぱり甘かった。砂糖のようとはいかないけど、それでも程よい甘みが伝わってくる。
 自分の爪に一体何が起こったというのだろうか。しかし幸恵にはそんなことはどうでもよかった。爪をかじることに対してのうしろめたさを、いいんだよ、と許してくれるような、そんな肯定をしてもらえたように感じたからだ。
 幸恵は四六時中爪をかじっているわけではない。今日だって爪をかじった原因は、学友にバカにされたことにある。それさえなければ、今日こそは爪をかじらずに過ごすことが出来たのに。

 授業が終わり、深夜帯でなければそれなりの交通量のある道路を右手に、一人で家路に就く。街灯やコンビニ、深夜まで営業している飲食店の明かりで、二十一時を回っているのに夜遅いという感覚はない。
 幸恵は足早に自宅に帰ると、コンビニで購入した弁当を電子レンジに突っ込み、羽織っていた薄手のコートをハンガーにかけた。外出の装いを解く頃に電子レンジの過熱完了を告げる音が鳴る。弁当と、冷蔵庫から缶酎ハイを取り出して、ベッドを背もたれにローテーブルの前へ座る。ここまで来てようやく幸恵は一息ついた。
 明日もまた朝早くからバイトがある。夜間の学校との掛け持ちの生活はなかなかハードなスケジュールだった。大学時代の友達と遊ぶ時間もほとんどない。しかし自分が選択した生活なのだから我慢しなくてはならない。そもそもは就職内定を勝ち取れなかった自分の責任だ。欲を捨てて必死に勉学に励んで、なんとしても安定した職に就かなければならない。学校にも行かずにフリーターなどするわけにはいかない。正規の職に就かないと、社会からの落ちこぼれだと考えているからだ。
「あ……」
 気付けばまた自分の爪をかじっていた。またやってしまったと幸恵は大きなため息をつく。
 昔からのこの癖はなかなか直らない。直したいと気を付けているが、無意識にかじってしまう。直したいと強く願うほど、焦燥からまたかじってしまう。
「けど、また甘い味がしたな……」
 今日はこの爪に異変が起こっている。甘みを感じるということだ。しかしただの勘違いなのかもしれない。無意識じゃないから癖は悪化しないと自分に言い聞かせ、幸恵は確認のために爪をなめる。やはり甘みを感じる。味覚がおかしいのか、しかしコンビニ弁当はいつもと同じ味をしている。気味が悪いが、しかし幸恵はまた爪をかじってしまう。どうにもこの甘味は癖になる。いけないと自分をいさめて、幸恵は目の前の弁当に箸を付けた。
 やっぱりコンビニ弁当ってこんなもんだ、と空になったトレイを見つめる。自炊をする時間はないが、コンビニ弁当は大味で飽きも早い。栄養も偏る。バイトか学校かどちらかが休みの時には料理をするが、今日みたいに掛け持ちなどで忙しい日はどうにも出来合いのものに頼ることが多い。
「たまにはおいしいもの食べたいな……」
 学生時代は暇な時に好きな料理を自分で作ったりもしていた。その時は手間暇をかけたし、栄養も味もこだわっていた。
 幸恵は爪を見つめる。先ほどかじってみたこの爪は、幸恵好みの甘みだった。そう考えると、もう一度味わいたくなってくる。しかし爪をかじる癖はなくしたい。これまで必死に我慢してきて、最近は少し落ち着いていたというのに。
 だが幸恵は耐え切れなかった。少しだけ、と爪をかじる。
 甘みが広がる。間違いなくこの爪からは味がすると確信する。そしてそれは間違いなく幸恵の好みの甘みで、コンビニ弁当の味に疲れた舌に癒しを与えてくれるようにも感じた。我慢しなくてはと思うも、幸恵はもう一度爪をかじっていた。

 しばらく暖かい日が続いたが、その日の夜は久々に冷え込んで朝に羽織ったコートでは心許なかった。バイトも終わり、夜間のネイリスト育成の専門学校へ授業を受けに来る。
 あれからほかの爪もかじってみたところ、味がするのは左手全指のようだった。好みの甘さのためか、ここ数日で幸恵の癖は悪化し、爪はかじった跡でガタガタになっていた。
 授業の開始時刻も迫りほとんどの生徒が席に着く。教室のあちらこちらではまだおしゃべりが止まない。しかし幸恵はその輪のどこにも加わり切れていなかった。大学卒業後に入学した幸恵にとって、高校卒業直後の四歳も年下の人とかかわるには僅かにためらいを感じ、その間に各グループが形成され気付けば孤立していた。
 幸恵と同じように大学卒業後に入学した人や、大学中退、社会人も少なくない。だが彼女らはそれぞれのグループにうまく入ることが出来ていた。幸恵も会話しないことはない。しかし、特定の相手はいない。
「ねえ宮崎さん、今日はよろしくね」
 話しかけてきたのは、隣の席に座っている山本唯香だ。
「うん、よろしく」
 今日は実習のある日だ。この学校は座席が指定されておらず、ペアになって課題を行う際は隣の席の生徒と組むことになる。仲良し同士であれば常に同じ相手になるが、幸恵にはそういう相手はいない。だからこうして、毎回違う相手と組むことになる。
「あれ、宮崎さん? 爪ぼろぼろだけど大丈夫なの?」
「あ……」
「……それで実習出来るの?」
 幸恵が通っているこの専門学校は、ネイリストになるための学校だ。その実習ともなれば、当然他人の爪にネイルアートを施すことになる。幸恵の右手には、既に自分の好みでネイルアートが施されている。
 左手の爪は、かじりすぎによって出血している指もある。そこにだけは絆創膏を貼っているが、他の剥き出しの爪は表面もかじったのかでこぼこし、爪の先はガタガタ。薄く脆くなっているのでネイルチップも付けられない状態だった。
「……ごめん、状態悪くて」
「やっぱり爪かじってるから?」
 幸恵はハッとする。
「こんなに爪悪くするのに。いい加減やめなよ、いい年して爪かじる癖なんて」
 数日前にも別のグループに同じようなことを言われた。その時は唯香よりももっと、嘲笑うような口調だった。いい年して、と、暗に年齢を強調されたのも、そのグループが教室中に聞こえる声で放った年上を見下すような言動から影響を受けているのかもしれない。
 その時まで気おくれを感じていた心に、剣山を無造作に押し付けられたような、そんな痛みを感じた。そして衆目監視の中で無意識に爪を噛んでしまったことが、事態に拍車をかけた。あくまでも幸恵のことじゃないかのように、爪をかじるなんて幼稚だ、と言い放ったのである。確かその時だった、爪に甘みを感じたのは。
「宮崎さん?」
 唯香の呼ぶ声で、幸恵は回想から現実へと引き戻される。気付けばまた爪をかじっている。自覚した途端に指先に痛みが走った。また出血箇所を増やしてしまった。幸恵が恐る恐る唯香のほうを振り向くが、その彼女の顔には憐れみも侮蔑もなく、ただ無表情に見えた。だから何を考えているのかがわからなく、幸恵は寒気を感じる。
「――ごめんっ、今日は帰る」
 実習の講師が入室するのと同じタイミングで幸恵は教室を飛び出した。以前幸恵を小ばかにしたグループの嘲笑するような声が背中のほうから聞こえたが、もうそれに反応出来るほどの余裕はなかった。

 どうしてこんなにも体が震えるのか。胸の奥からマグマが湧き出るように体が熱く、一筋の汗が流れる。まとまらない思考の渦で頭の中は常にかき回されているみたいに、幸恵は感じた。夜になればまだ暖房が欲しいこの時期なのに、今は何もいらない。
 自宅に戻りリビングで膝を抱え込んで、気付けば時刻は深夜の十二時を回っていた。先ほどから何度もあの場面がループする。正面を切って癖を否定された瞬間に、何かが破れたような気がした。自分でもあまり快くは思っていなかった昔からの癖。他人から指摘されると、どうしても相手と自分の双方に攻撃的になってしまう。
 こうして延々と感情を揺らめかせている間にも、幸恵はまた無意識に爪をかじる。正常な意識を乱すほどの恥辱、憤怒と、かじり進むにつれて増していく爪の甘みは、出血してもなお爪をかじり続ける幸恵から痛みを忘れさせていた。

「申し訳ありませんでした」
 幸恵はバイト先のアパレルショップで、客が購入予定の服を受け取り損ねて落とし、そのうえ踏んでしまうというミスを犯した。服を受け取り損ねた原因は爪だった。かじりすぎによって全指から出血しており、服を受け取った瞬間に痛みが走り、思わず手を引いてしまい床に落とした。左手の指はすべて包帯が巻かれており、接客業であるというのに見た目も悪く、その点でも注意を受けていた矢先の出来事だった。
 その日は最後までシフトをこなしたが、指を治すまでは休養を取るように言われた。ミスをした時にこうなることを覚悟していたとはいえ、実際にその通りになってしまい心は重い。気が付けばまた爪をかじるしぐさをしていたが、包帯に阻まれて甘みに到達することはなかった。
 どうしてこうなったのだろう、と幸恵は答えを出すわけでもなくその問いをただただ繰り返し自分へ投げつける。答えを出すまでに至らない無駄な考えを縦横無尽に頭の中に巡らせる。
 このところ学校へも行っていない。行こうと思えば、この前の出来事がフラッシュバックして体を凍らせる。汗が噴き出る。まだ肌寒さの残る時期だが、幸恵は常に体が火照っているようで、家の中でじっとしていても汗が額からにじみ出る。一年ほど前に就活に失敗したまま大学を卒業して、気分が重く塞ぎ込んだ時にこれと同じような感覚を体験している。
 ここで立ち止まるわけにはいかない。頑張らないといけない。焦るように促す心が、ますます体を重くする。無職にだけはなりたくない。大学卒業までの二十二年間、大きな挫折も疎外もなく暮らしてきた。それが今ここに来て、社会から邪魔者のレッテルを張られるのには耐えられない。就職内定が取れなかった時、それでも支えてくれた両親や親友に顔向けできない。バイトから正社員登用の道や、進学の道をあることも示してくれたというのに、裏切るわけにはいかない。
 これまでにないくらいにフルスロットルで思考を回し続けた頭は、ついにオーバーヒートする。急に思考はぴたりと止まり動かなくなる。そして思考で積み上げられた塔は崩落を始める。ベッドに膝を抱えて座り込み、壁に背中を預けながら、幸恵は霧散していく思考とともにただ一点だけをうつろな気持ちで眺めている。色彩がモノクロになっていくようにも思えた。
「おなか減ったな……」
 また無意識に爪をかじる。鈍い痛みとともに思わず口を離す。爪の代わりに、舌には包帯のざらざらした触感と灰色の渋みが残る。
 あの甘味が恋しい。しかしこれ以上爪を噛むわけにはいかない。ではなにか代わりになるものを、甘いものを。そういえばチョコレートがあったはず。
 幸恵はキッチン横のストッカーから、口の空いた板チョコを手に取る。確か四日前に三分の一ほどを食べた。閉じてあった包みを開きチョコをかじる。柔らかく、少し熱を持ったような甘みが口に広がる。――これじゃない。そう思いながらも幸恵はチョコを貪る。爪の甘みはもっと透き通った舌触りで、優しくふわっと拡がる。けれども今はチョコで紛らわせよう。
 夢中になっている間に、最後の一口を含んだ。食べ終わるや否や、幸恵は立ち上がってコートを羽織る。爪に代わる、なにか味の良く似たものを探そう。そう思い立った。
 夜もそろそろ深まる二十三時。近所のスーパーは既に閉まっているので、向かう先はコンビニ。そこで爪の味に似そうなお菓子、清涼飲料水などを手あたり次第レジへ持って行く。はたから見れば、これから夜通しでパーティをするための買い出しにも見えるだろう。左手に巻いている包帯が一層異様さを引き立たせていた。
 家に帰ると、次から次へと菓子類を開封し、口に放り込んでいく。どれも確かに甘くておいしいが、爪の味を再現するようなものには出会えない。一口食べて、求めている甘みと違えば、また別のお菓子を一口。そして時折清涼飲料水を流し込む。強いて言えば、果汁の入ったスポーツドリンクが一番近かっただろうか。しかしそれでも幸恵はそれを及第点とはしなかった。
 ベランダの戸から入り込む光で、幸恵は目を覚ました。ローテーブルの上に散乱している、食べかけのお菓子、個包装の空き袋、栓が開いたままで炭酸の抜けた飲料などが目に飛び込んでくる。
 あのまま寝てしまったんだ――。夜が明けきった景色を一瞥すると、幸恵は時計に目をやる。いつもならバイトへ行くためにもう家を出ている時間だ。しかしこの日は当然そうではない。休暇を取るように言われたからだ。夜には専門学校での授業もあるが、行こうとする気力が湧かない。学校の周辺に近付くだけで動悸がする。
 着ていた服が寝ている間にかいた汗を吸って湿っており、いよいよ冷たく感じてきた。服を脱ぎ捨て、幸恵はシャワーを浴びに向かう。左手の包帯を外したときに、異変に気付いた。
「え……」
 そこには、快癒した爪、ではなく、指先から徐々に剥がれつつある爪があった。毎日見ていたはずなのに一体いつからこんな状態になったのか。かじったことによる出血は収まっていて痛みはない。特に深くかじっていた人差し指と中指の爪は、半分ほどが白くなって剥がれかけている。とりあえず病院へ行こうと思い、幸恵は用意してあった着替えの服を着る。袖に手を通す時に一瞬爪が引っ掛かったが、さほど大きな痛みは感じなかった。
 出かける前になり小腹が空いていることに気付くと、幸恵は今度は意識的に、幸福感を求めて爪をなめてみる。温かみのある甘さが舌の上を伝う。手触りの優しい橙色の感触が舌から頭へ、心臓へと拡がっていく。これほどの満足感を得られる食べ物が他にあるだろうか。調子に乗ってかじってしまったところで軽い痛みが走り、幸恵は我に返る。
 いけないいけないと自分を諌め、幸恵はローテーブルに散乱したゴミを捨て、開封済みのお菓子を口に放り込む。半分ほど残っていたチョコレート菓子を平らげると、ようやく幸恵は玄関の扉を開けた。
 診察を受けた皮膚科では、爪の保護方法を教わり軟膏を処方されただけで終わった。医者の説明によると、しばらくするとこの爪は剥がれ落ちて、新しい爪が生えてくるだろうとのことだった。その間は今までと同じように指先を保護するためにガーゼと包帯が巻かれた。
 爪が剥がれ落ちてしまう。ネイリストの道を志した身としては、新たな爪が完全に生え揃うまでは落ち着かないだろう。しかし幸恵にとってはそれよりも、爪を味わうことがこの先も出来るかどうかのほうが気がかりだった。
 行く当てもないのに、早く、早く、と胸の奥から急かされる感覚に、幸恵の歩調は自然と早くなる。行き先は決まってない。家に帰るのだろうか。自分でもよくわからないまま、見知った景色をいつもより早く視界の外へ流して行く。
 意識したわけでもなく自然と辿り着いた先はチェーンの喫茶店だった。自動ドアを通り抜けると耳障りでない電子音がかすかに聞こえる。奥の席へと案内されるとすぐさまメニューを開き、パスタのセットメニューを注文した。思考したわけではなく、意識に逆らわず意見せず、流れに任せて客観的に眺めていた自分の行動に、幸恵は疑問を抱かなかった。そういえば、お腹が空いている。
 パスタセットを食べ終わった幸恵は、デザートを注文した。しかし一品だけでなく、メニューに書かれている半数くらいは頼んだか。ケーキだけにしても四種類、アイスクリームを二種類、パフェを一つ、最後は白玉ぜんざいで締めた。これだけの量を立て続けに注文し、ウェイトレスの顔は軽く引きつっていたが、驚いたのは言うまでもなく幸恵自身だった。今までこれだけの量を食べ切ったことはない。ようやく満腹になった。ちらちらとこちらを見る店員の視線がどうにも居心地が悪い。流れる汗をぬぐって、幸恵は会計を済ませて店を出た。

 ベッドに転がる幸恵は、包帯を解いた左手を掲げる。爪はほぼ根元まで白くなり、あとちょっとで剥がれるところまで来ている。いつか皮膚科医から処方された軟膏は、初日以降塗っていない。塗ってしまうと爪を味わえないからだ。幸恵は爪をなめる。いつものように心から癒してくれる甘み。
 幸恵は、早く爪が剥がれてくれないかと楽しみになってきていた。理由は至極簡単で、自分を傷めることなく爪をかじることが出来るからだ。
「もうちょっと……、楽しみ」
 独白すると頬が緩む。爪が剥がれたら、そのままの大きさでかじってみようか。どれほどの快感が覆ってくれるのだろう。楽しみで仕方がない。
 一人で近い未来の期待にふけっていると、スマートフォンに着信が入った。
「もしもし? 今大丈夫?」
 声の主は幸恵の高校時代からの友人である永瀬遥香だった。
「時間あったらご飯食べに行かない?」
「うん行くー。おなか減った」
 遥香からの食事の誘いに幸恵は乗ることにした。そろそろ昼食の用意でもしようと思っていたところだ。

 梅の花が咲き始め、街中の木々はいよいよ色気づき始める。待ち合わせ場所へ到着した幸恵は、遥香の姿を見つけると小走りで駆け寄る。
「久しぶり幸恵ーって、何その手!?」
 遥香は幸恵の左手の包帯が目に入り、口を右手で覆う。幸恵はこの爪の状態のことを誰にも話していない。遥香は幸恵の爪をかじる癖を知っていながらも付き合いの続いている友人だが、甘みを感じるがゆえに起こった惨状を、いよいよ彼女も離れて行ってしまうのではないかという恐れから伝えるのを憚っていた。
「うん……、そのことも話すよ」
 幸恵はこわばりながらも口角をあげる。それが遥香の目にどう映ったかはわからないが、遥香はうなずくだけで、じゃあ行こうかと幸恵を促した。
 ランチタイムでにぎわう店内の隅のテーブル席に二人は案内される。椅子に座り幸恵は息を吐く。待ち合わせに向かう電車の中で、どう話せばいいのかさんざん考えたが結果は出ていない。一緒に食事をすると二つ返事をしたものの、そうなればどうしても左手の包帯に目は行くし、事態を話さざるを得ないことはわかっていた。
 話す覚悟は決めたとはいえ、遥香が専門学校の人間と同じ反応したらどうしようか。ここのところずっと早く感じている鼓動がさらに勢いを増したように思えた。幸恵はハンカチで額をぬぐう。
「ごめん幸恵、体調悪かった?」
「ううん、大丈夫。最近暖かくなってきたよね」
「そうだね。でもまだまだ肌寒いよ」
 注文を終えると、幸恵を意を決して話を切り出す。
「遥香、この左手のことなんだけど――」
 幸恵の緊張を読み取ったのか、遥香は笑顔を崩さないまでも真剣な瞳を向けてくる。威圧感はない。遥香はこうして話し手に聴いてもらえるという安心感を与えることに長けている。
 幸恵はすべて話す。昔からのかじる癖と、爪に感じる甘み、学校での醜態、バイトでの失敗。話すうちに知らずと目から涙がこぼれる。たどたどしいながらもやっとの思いで全部話し終えた頃、注文していたパエリアとスープとサラダのセットが運ばれてきた。
「そっか。うん、つらかったんだね。気付いてあげられなくてごめんね」
 幸恵は首を横に振る。遥香が謝ることではない。今も相槌を打ちながら話を全て聴いてもらった。遥香に面白くもない愚痴を聞かせたのではないかと、話し終わった今になって心配になる。
「そういう時はすぐに私に言いなよ? 一人で溜め込まないでさ。愚痴だっていくらだって聞くし、気分転換に遊びにも行こう」
 自身も仕事で忙しいはずなのに、遥香は友人のために時間を作ってよく付き合ってくれる。幸恵は今までそれに一番にお世話になってきた。就職先が決まらずに大学卒業を迎え、半ばやけになった幸恵のために、新人研修中の少ない休みを費やしてくれたこともあった。
 また遥香を頼ってしまっている。幸恵は心臓を掴まれたような感覚に襲われ、同時に頬が下から押し上げられるように火照っていくのを感じた。
「ほら幸恵、食べよ」
 遥香は屈託のない笑顔で促した。気付けばまた爪をかじろうとしていたのか、包帯にくるまれた白い指が口元まで来ていた。我に返ると料理の香りが幸恵の嗅覚を刺激し、空腹を思い出す。幸恵は小さくうなずくとスプーンを手に取ってパエリアに手を付けた。
「――でさ、幸恵はどうしたいの?」
 遥香の質問の意味を取りかねて幸恵は食事を進める手が止まる。
「どうしたいって?」
「いろいろ話してくれてつらいのはわかったけど。これからどうしたいの? この状況から抜け出したいの? 周りとの関係をなんとかしたいの?」
 そういえば、そんなことはなにも考えていなかった。ただただつらさに溺れて、現状を嘆き、一人で抱え込んでは自分の中でぐるぐるとかき回すだけ。逃げるか、立ち向かうかなど、そんなことを幸恵は今まで考えていなかった、思い至りもしなかった。
「えっと……」
 遥香の質問に答えられない。両方ともという気持ちもあるが、両方とも違うような気もする。正直にその気持ちを遥香に伝えると、なるほどね、と彼女はうなずく。こういう答えが返ってくると予想していたようだ。
「逃げたくもないし、立ち向かいたくもないわけだ。それは甘えだねー」
 心臓にフォークを突き立てられたような気がした。遥香はこうやって物事をはっきりと言うことがある。悪意もなく善意で正論を真正面からぶつけてくる。幸恵はそのことをちゃんとわかってはいるが、面と向かって言われればその言葉は当然痛い。
「だって、私だって、どうしたらいいのかわからないの。癖だって直らないし、学校では私以外年下ばっかりで浮いてて、それをバカにしてくるし、バイトもこの癖で爪がボロボロになったせいでミスして行けないし。皮膚科に行っても生え変わるのを待ちなさいだよ? 動けないじゃん! 待つしかないじゃん!」
 また涙が流れる。顎から数滴滴るのが幸恵にはわかった。
「――幸恵ってなんでネイルの学校行ったんだっけ?」
 予想外の返答――質問に、幸恵はきょとんとする。
「え? それは、ネイリストになるために……」
「幸恵ってそんなにネイリストなりたかったっけ? 大学の卒業前に相談されたけどさ、あんまり本気って感じはしてなかったけど」
 幸恵は言葉に詰まる。遥香の言う通りで、ネイリストは幸恵にとってたいしてなりたい職業でもなかった。なりたい職業だと、自分に言い聞かせていた。就職が決まらず卒業して、しかし無職にはなりたくなくて、将来高確率で仕事にありつけそうな学校に入学することに決めて、その学費を稼ぐためにアパレルショップのバイトを始めた。
 決して自分がなりたいもののために頑張っているわけではなく、なれそうなもののために頑張っている。社会から負け犬扱いをされるのが怖くて、自分はこの道でいいんだと言い聞かせて進んできた道。
「幸恵さ、やりたいこと見つからなくったって、やりたくないことはやらなくていいんだよ。そりゃあバイトとか働くことは大切なことだけどさ、学校は自分が学びたいもののために行くもんじゃない?」
 なんで私はネイリストの学校を選んだのだろうかと、幸恵は自問するがすぐに答えが出ない。
「なんなら、ネイルとアパレル店員と、この二つでどっちが楽しい?」
 これには幸恵はすぐに答えられる。アパレル店員だ。学校は将来の安定のために必死で、なんでも身に付けよう取り込もうと必死でいる。アパレルショップのバイトは良くも悪くも長く居続ける気もなかったので、その分だけ気楽でいれた。学校で友達が出来ないぶん、客と話すのも楽しみにしている。
 幸恵は自分の矛盾と浅はかさに気付く。今まで明後日の方向に頑張っていたのかもしれないと。このまま学校で技術を学び、ネイリストとして就職すれば、幸恵の求める安定、社会的な立場は手に入れられるのかもしれない。だが幸恵には、この仕事に興味がない。
 誰もが好きな仕事に就けるわけではないが、興味のない分野を専門学校に通ってまで選ぶ価値があるのだろうか。
「ねえ、私どうすれば――」
「どうするかは、幸恵が自分で考えて決めなきゃね」
 遥香は笑顔でそう言うと、残っている料理を口に運ぶ。幸恵もまだ食べ終わっていないことを思い出して食事を再開する。
 突き放された、という感じはしなかった。遥香もそのつもりはないだろう。自分のことは自分で決断しろというのは至極当然のことだ。今までの幸恵なら、突き放されたと思い込み、結局自分で行動するという考えには至らずに抱え込んで潰れて行ってただろう。
 しかし先ほどのやり取りで、自分の行動は自分の意思を確認して決断すべきという意識が幸恵には芽生えた。苦しくて学校に行けなかった。ならばそれでいい。苦しいほどならばわざわざ行かないでおこう。夢に向かっているならば乗り越えなきゃならないだろうけど、そうではない。
 社会の中で存在価値を見出して生きなければならない、が、焦ることはない。がっちりと固まっていたボールにやや弾力が生まれてきたような、幸恵から必要以上の気負いがほぐれていく。
「遥香、ありがとう」
 幸恵は視線を落としたままつぶやく。遥香は、うなづいて大きな笑顔を見せた。

 テレビからは、例年より早い桜の開花を報じるニュースが流れている。もうそんな時期なのかと、幸恵は昼食の後片付けをしながら考えていた。
 専門学校は今は春休みに入っている。結局あれからは一度も行かず、先日退学届を提出した。左手はまだ治っておらずバイトには復帰出来ていないので、実質無職期間となっている。
 何もすることがないのは慣れない。無職でいることのうしろめたさはなくなることはないし、焦りだってある。しかし学校に行かなくても良くなったことは、幸恵の心を大いに軽くした。今までこの重圧にどうして気付かなかったのかというくらい今は落ち着いている。
「でも仕事に戻れるとも限らないしなー……」
 バイトを休み始めて三週間が経とうとしている。これ以上休むことになれば復帰が難しくなってくるかもしれない。それが数少ない心配事の一つだ。
 洗い物をし終わった幸恵は額の汗をぬぐうと、ローテーブルに置いてある一口サイズのチョコレートを口に放り込む。あまり外に出ず、食事やお菓子の量も増えた。危機感を覚えて数日前に体重計に乗ったが、むしろ体重が少し減っていることに驚いた。
 ベランダの戸からささやかに吹き込んでくる風が心地よい。ベッドに座って一息つくと、スマートフォンを手に取りインターネットブラウザを開く。遥香との食事以来、こうして資格や趣味、習い事などの情報サイトを見ては、興味が持てそうなものを探している。同時に求人サイトも確認して、ネイリスト以外で適職を探し始めている。やりたいやりたくない、出来る出来ないではなく、向いてるか向いてないかを観点に探してみると、今まで考えていなかった職種が出てくることもあった。
 私は視野が狭かったのかもしれない、と幸恵はたびたび思う。今までのことが無駄だったとは思わないが、もっと自発的に動くべきだった。これまでは周囲の意見ばかりを求めて、進学先や進路を決めてきた感もある。結果的にその性格から、無職はいけないという考えも生まれた。他人の目を気にして行動して、気にしすぎるあまりに孤立してしまったりもした。
 しかしそれは、幸恵の固定観念だということに気付いた。社会的な評価には確かに影響するが、してはいけないことではないと、納得が出来るようになり始めていた。
 ふと左手を見やる。幸恵は思い立って包帯を解いてみた。すると解くと同時になにかが数枚ぽろりとひざの上に落ちる。それは紛れもなく、剥がれた爪だった。見れば爪の根元には新しい爪が生え始めている。
 幸恵の心はふわりと浮きあがる。奥底から湧き水のように興奮が溢れ出してくる。ついにこの時が来た。幸恵は喜びを自分自身に伝えるかのように両頬を撫でまわすと、その手をゆっくりとひざの上まで持ってくる。そして剥がれ落ちた爪を恭しくつまみ上げると、蛍光灯の光に透かしてまじまじと見つめる。幸恵の喜びは、爪が生えてきたからではなく、古い爪が剥がれ落ちたことにあった。
 剥がれ落ちた爪は、甘みのする爪。これまでかじることしか出来なかったが、剥がれてこれほどまで大きな爪を口に含めれば、一体どれほどまでの幸福感を得られることが出来るだろうか。想像するだけで身震いするほど気分が高揚する。
 幸恵は居ても立ってもいられずに一枚の爪を口に含んだ。瞬時に拡がる多幸感はあっという間に頭を駆け抜けて、胸の内側で超新星爆発が起こったように膨れ上がっていく。細胞が震える感覚が全身に広まってからも、口から脳から胸からの幸福の供給はやまない。そのうえ爪を噛めば噛むほどその快感は深みを増し強くなっていく。幸恵は夢中になって爪を噛み続けた。人間の三大欲を瞬時に満たしてさらに容赦なくしみ込んでくる幸福感。これほどまでの快楽は今までに感じたことがない。この爪は麻薬のようであり媚薬のようであった。ベッドに倒れこんだ幸恵は、土砂降りの雨が降り注ぐかのような大量の快感に溺れる。理性や思考は爪を口に含んだその時から一瞬にして消え去っていた。
 いよいよ一噛みするのにもあまりの気持ちよさが邪魔する段階になって、ようやく爪の効力が薄れてくる。幸恵はベッドの上から起き上がれないほどに全身の力が抜けていた。今まで経験したことのない感動が押し寄せる。口の中に含んでいる爪をもう一噛みするが、それからはもう甘みを感じなかった。
 窓の外は一旦暗くなり、そしてまたうっすらと青白く染まり始める。ところどころ散らばる星が消えまいと必死に輝いていて、窓から見えるその景色は海にガラス球を沈めたようだなと幸恵は思った。幸恵はベッドから立ち上がれない。昨日の昼から立て続けに剥がれた爪を噛み続け、半日強をかけて五枚の爪を堪能した。
「終わっちゃった……」
 もう甘い爪はない。新たに生えてくる爪をかじろうにもまだ短すぎる。
「また、もう一つ……欲しい」
 もう一度あの多幸感を。どうすればもう一度体験出来るのか。汗が額を伝って流れ落ちる。体が太陽を取り込んだかのように暑い。
 思い返せば爪を噛み始めてから爪以外のものを口にしていない。気付いたところで猛烈に空腹を感じた。幸恵は力を振り絞って体を起こす。力を入れづらいのは疲弊しきっているからのようだった。
 あの甘味に代わるものを作るしかないと幸恵は意気込んだ。まずはこの極限の空腹を脱するために、幸恵は買い込んだお菓子の袋を開けて貪る。ものの数分で一袋を空にすると一杯の水を飲み干して立ち上がる。台所へ向かうと幸恵は慣れた手つきで調理を開始する。ほんの十数分で出来上がったホットケーキに、多種類のトッピングを施し、分量を調整しながら口に放り込む。一回一回味を確かめながら、数枚のホットケーキを完食した。
「違う!」
 幸恵は調理器具を投げ出す。流し台に放られたフライパンやボウルが激しい金属音を立てるが、それはすぐに静寂へと変わる。夜空に咲いた花火が消えてゆくような寂しさを思わせる。開け放しにしているベランダの戸からは、朝空を優雅に泳ぐ鳥の声が流れんでくる。
 至高の幸福を味わったせいか、普段の空気があまりにも無味乾燥で、耐えきれないほどの虚無が幸恵を襲う。そして不安と焦燥と、イライラが沸き立つ。しかしそれを当り散らすにも気力が湧かない。空腹はまだ解消してなく、幸恵はまたお菓子の袋を開けて無造作に食べ始めた。

 幸恵の食費は爆発的に増えた。学校はやめてバイトは休職中。この時間を活かす手はないと、爪の味を再現するために東奔西走しては様々な飲食店で食事をしたり、家に帰れば自炊で探求するのを止めなかった。
 ある程度生えてきた新たな爪をなめた時に、今度は無味だと判明し酷く落胆した。だからこそ余計に血眼になって爪の味を求めた。
 桜がほとんど散る頃、幸恵の元に遥香から連絡が入った。近況を問うようなありきたりなメールだった。幸恵は火にかけた鍋の前に立ちながらメールの返信をする。すると返信してまもなく電話がかかってきた。
「幸恵、今から家行っていい?」
 幸恵に断る理由もなく遥香を誘うと、彼女はすぐに訪ねてきた。軽く息を切らした遥香は、幸恵の姿を見ると肩をなでおろしながらも眉尻を下げる。
「幸恵、大丈夫なの? 体調は悪くない?」
「どうしたの急に?」
「だってあんた、食生活おかしいよ。どう考えても食べすぎでしょ」
 メールには近況報告として、今日三度目の食事だということを書いた。時刻は十三時だ。言われてみれば確かに食べすぎかもしれないが、一度の食事量は軽食程度に抑えている。遥香をリビングに通してから、幸恵はそれらのことを話した。
「うーん。幸恵の体系は変わってないからそうなのかもしれないけど……。でもどうして急にそんな食生活になってるの?」
 遥香は渋い顔をして尋ねる。ちょうど充分に煮込んだビーフストロガノフを器に盛って幸恵が運んできたところだ。視線がその手元に向いているから、左手の爪の状態も見てそのような複雑な表情になったのだろう。
「爪の味を、もう一度味わいたいから」
 幸恵は胸中を正直に話す。すべてを受け止めてくれる存在だからこそ、遥香の前では嘘は無意味だ。そういうことか、と遥香はため息をつく。
「で、その爪の味は再現出来たの?」
 遥香は半ば呆れ顔で聞いてくる。
「まだまだ。なかなか辿り着かないんだ」
「ビーフストロガノフの味に近いの?」
「ううん、全然」
 あっけなく答える幸恵に、遥香は少し面食らっているようだった。
 爪の味の再現はあきらめていないが、そのために自炊を再開するようになり、大学時代の暇な時にしていた料理の楽しさを思い出した。そして味の再現と関係なく趣味として料理をするようになり、今では毎日必ず何かを作っている。
「幸恵、料理は楽しい?」
「うん、楽しいよ」
 幸恵は笑みを浮かべて返す。この言葉は間違いなく本心だ。
「そっか、なら良かった」
 それを見て安心したように遥香は配膳された料理に手を付ける。
「わ、すっごいおいしい!」
「本当? ありがとう」
「うん、おいしいよこれ。お店のメニューみたい!」
「ちょっとそれは言い過ぎだよ」
 何度も幸恵を褒める言葉を出しながら、満足そうに遥香は料理を口に運ぶ。遥香にここまで料理を褒められたのは初めてかもしれない。今までも何度か暇な時に作った手料理を振舞ったことがあり、その時もおいしいと答えてくれていた。だが今回はいつも以上に大げさで、そして表情にはそれを裏付けるかのように満面の喜色が浮かんでいる。
 バイトも学校もなく、近頃は家でずっと料理をしている。手の込んだものや時間のかかるものにも手を出して、時間があるがゆえに試行錯誤してよりおいしいものを目指したりもしている。別段凝り性というわけではないが、面倒さを感じることはなく、純粋な好奇心が幸恵を突き動かしている。
 遥香の喜ぶ姿が、幸恵の奥底をくすぐらせる。よくわからないが心地よい。乾いた土をじわりと潤わせていくような感覚が胸に広がり、自然と頬は緩む。幸恵は気付いた。これは、爪をかじった時の幸福感に似ている。爆発的ではないが、ゆっくりと領域を拡げるそれは充足するには申し分ない。ささやかであるがために貴く、穏やかに満ちていく。
「ねえ遥香」
「なに?」
 気が付けば遥香に声をかけていた。
「私、料理を喜んでもらえるととても嬉しいみたい」
 自然と言葉が口を出る。意識して発した言葉ではないが、間違いなく幸恵の本心だった。言葉を発してから、幸恵自身もその発言に改めて自分の意思を掴む。
「そっか、私は誰かのために料理をすればいいのかな。――そうかもしれない。だって嬉しいし、やる気も出るし」
 幸恵は確信に近いものを得た気がした。妙な自信が出てくる。この気持ち正しいものかどうかはやってみないとわからないが、どうせ正解など存在しない。これが社会的に立派に認められて生活につながるかと言えば、直接そうであるとは言い切れない。だが今は、幸恵は遠回りすることについて若干寛容になってきている。こちらの道に試しに進んでみるのも悪くない。
「遥香、私、やりたいこと、これかもしれない」
 幸恵の目が透き通って奥深さを増しているように遥香には見えた。それは明らかに決意の表れで、同時に淀みが消えて見通しのよくなったその奥には、確かに幸恵の思いが脈を打っていることが分かった。
「うん、いいんじゃない? 応援するよ、幸恵」
 遥香の言葉に、幸恵は屈託のない笑顔を浮かべた。

 満足げな顔を浮かべた女性が、ブランドロゴの入った紙袋を手に店を出て行った。店頭で頭を下げて笑顔で彼女を見送った幸恵が店の中へ戻ると、幸恵より少し年上の頃のこの店の店長が感心したような表情で幸恵を見つめていた。
「前にも増して気持ちのいい接客が出来るようになってるね。爪の具合はどう?」
「ありがとうございます。爪はだいぶ生えてきましたよ」
 幸恵は笑顔で、もう包帯を巻いていない左手の甲を店長に差し出す。新たに生えてきている爪は、根元から三分の一を過ぎてもうすぐ半分のところまで達しようとしていた。
「へえ、良かったじゃん。もう少し頑張れば完全復活だね」
 幸恵は笑顔ではい、と答える。
 ショップへは無事に復帰することが出来た。本来なら解雇されてしまうところであったが、その決定が下る寸前に、幸恵が復帰可能の連絡を入れた。店長自身はそれでも戦力にならないだろうと踏んでいたが、直接店まで挨拶に来た、穢れを落としきったような幸恵の清々しい表情を見て復帰を認めた。
 それからの幸恵はこれまでと打って変わって生き生きと仕事に励み、わざわざ幸恵の出勤日に合わせて来店する客も付き始めた。店長から見れば別人の如く見えてしまうが、幸恵の本来の姿はこっちだ。未内定のまま卒業、焦って専門学校へ入学し、学費を稼ぐためにバイトを始めた。その頃には既に気疲れしていた幸恵は、持ち前の社交性を発揮しきってはいなかった。
 しかし幸恵自身は、元に戻ったではなく成長したと感じている。その場を楽しく過ごすためのポジティブさは、今は将来の目標に向かうものに切り替わっている。先を見据えて行動することが出来るようになって、より高い壁が乗り越えられるようになったと感じていた。根拠なんてないが、今までと違って余裕が生まれてるのは確かだった。
「でも残念だなあ。こんな出来る子なんだし、本音は、もっとシフト入って欲しいんだけどな~」
 店長が猫なで声で独り言をいう。独り言のように明後日の方向を向いて言っただけで、その内容も声の大きさからもそれは幸恵に向けられた言葉であることは明白だった。嫌味で言ったわけではなく、純粋に幸恵の能力を褒めている。
 幸恵はこのショップでのバイトの日数を減らしていくことを決め、店長に理由を告げ打診して許可をもらっていた。今まで週に五日入っていたが、今は四日。今後は一日ずつ減らしていくつもりでいる。
 早番で入っていたため、この日のショップでのバイトは夕方に終えた。雨粒が傘にあたって、小さな花火が弾けるような音を立てる。それほど激しい雨でなく、昨日と違ってカーディガンやパンツの裾が濡れるのを気にせず歩く。しばらく歩いた先にある和食料理屋に訪れ、幸恵は店舗の裏側にある従業員用の入り口から中に入った。
 幸恵は和食料理屋でバイトを始めた。アパレルショップのバイトを減らしたのは、徐々にこちらでの比重を増やしていくつもりだからだ。和食料理屋と言っても大層な老舗などではなく、和食を中心に料理を提供するチェーン店だ。夜間の営業時は居酒屋としても賑わう。
 料理で人を喜ばせたい、と考えた幸恵は、飲食店でのバイトを始めることに決めた。当初は老舗の和食料理店、本格イタリアン、フレンチ、ケーキ屋などいろいろ考えていた。なかなか決めかねて遥香と相談した結果、この店に落ち着いた。
 本格的な店でなくチェーン店で働くことを決めたのには理由がある。幸恵がしたいのは料理そのものを極めることではなく、喜んで食べてもらうこと。極端に言ってしまえば、喜んでくれるなら料理にはこだわらず、ひと手間かけたインスタントラーメンでもいいのだ。そしてチェーン店であれば、和洋中の様々なメニュー展開がなされており、より多くの種類の料理を手掛けることが出来る。
 将来は、料理人より定食屋のおばちゃん。幸恵は、自分の理想にはそれが一番しっくりくると感じてのことだった。

「幸恵、キッチンのバイトはどんな感じ?」
 久しぶりに遥香と会ってファミリーレストランで食事をしている。
「うん、とっても楽しい。今までいろいろしてきたけど、一番しっくりきてる」
 良かった、と遥香は喜色のこぼれる声音で言った。
 自分で決めた価値観に縛られて、苦しみながら生活していた一年間はなんだったのかと幸恵は考える。しかし、その期間があるからこそ悩み、あがき、今の立ち位置にいる。じゃあいっか、と幸恵はその考えを流す。今は好きなことが出来て楽しいのだから。
 定職に就けていない焦りやうしろめたさは、やはりまだ消え去ってはいない。かねてより持っていた価値観はそう簡単には変わらない。だが深く悩むことはなくなった。目指す目標地点が鮮明に見えているからだ。どこに向かっているのかわからない道を、たった数メートルの視界の中で進んでいるような恐怖感や重圧はもうない。
「爪きれいじゃん。もう噛まなくなったんじゃない?」
「――あ、本当だ」
 遥香に言われて気付く。爪の味を再現するために料理に没頭し始めた頃から爪をかじる癖は消えていた。理由はなんとなく察しが付いた
「やりたいこと見つかったからね。たぶん、癖治ったよ」
 雨の上がった午後、ファミリーレストランの窓際に咲く紫陽花に付いた水滴には、空に映える虹が映り込んでいた。